馬という生き物  受け売り乗馬教室先頭ページに戻る
 自動車がどういう物だか知らずに運転はできない。
 馬も同じ、自分が乗っている馬とはどういう生き物か知らずに乗るなんて論外。馬を知ることは、安全のためにも、技術上達のためにも必須。乗られる馬にとっても、乗る人がこれを知っていることはありがたいことだ。

 以下の馬とはこういう生き物だという話しは、MontyRobertsの本からの受け売り。日本語版が出版されていないようだけれど、とても平易な英語で読みやすい。kindle版なら千円ちょっとだから値段も手頃。

 「馬とはこういうもの」でいうと、

(1)何百万年ものあいだの進化の過程で馬という種族全体に備わった性質、
(2)家畜として人間と接するようになって人間とのつきあいで形成された性質、
   なお、現在の最新DNA研究で太古からの野生馬というのは全部絶滅しており、現在野生馬と言われているものもすべて、家畜として人間に飼われていたものの子孫だということが判っている。(この注釈は、「馬のこころ」の記事)
(3)個々の馬の生まれつきの個性による性質、

の三つがあるが、以下は主に(1)の観点からの解説。
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馬の目的
 馬はたった二つの目的しか持たない。一つは生き残ること、もう一つは繁殖すること

 しばしば人間を動かす動機となる貪欲とか、快楽をむさぼるということとは無縁。だから、馬が人に危害を与えるような行動をしたとすれば、それはたった二つしかない目的の一方「生き残ること」を脅かされた恐怖からであって、決して馬に「悪意」があったからではない。

 逆に言えば、この目的さえ保てれば、他のことは受け入れてくれる。たとえば、ハミを銜えさせられることも、人に乗られることさえも。
馬は攻撃しない、逃げる動物
 馬は草食動物であり、他の動物を襲う手段をもっていない。しかも、身を守る分厚い皮膚も角もない。だから危険からは逃げるのが唯一の対処法。跳ね回っての暴走も、パニックになって危機的状況(馬が勝手にそう思い込んだ)から逃げたいから。決して、乗り手に危害を加えたいからではない。

 だから馬を「これでは逃げ場が無い」と思わせるような環境に置いてはいけない。無口に付けた曳き綱を首を自由に動かせないほどに、非常に短くどこかに固定して縛り付けるということは、馬に逃げられないという恐怖を与える。恐怖が募ると、自由になるために大暴れしかねず、馬にも人にも、とても危険。
馬のコミュニケーションはジェスチャー依存
 人に飼われている馬は音声も使うが、野生馬は声を出さない。

 被捕食動物である馬にとっては、声を出して周辺から注目を集めることは、捕食動物を呼び寄せる危険な行い。だから、馬の会話は基本的にジャスチャーによる。「ほー」という音声で馬を減速したり止めたりできるじゃないかというが、それは馬とのコミュニケーションではなくて、馬をそう習慣づけただけだという。

 馬の目を見つめて両手をひろげて馬に正対することは、おれ(捕食者)はお前を襲うぞという意味だから、馬に恐怖を与えて追い払う。

 反対に、目をそらせて、開いた手を握って腕を胸の前に折りたたむなどは襲わないよという意思表示。他にもいろいろあるが、こういう馬語(ジェスチャー)が話せると、野生馬とも会話できるという。

 つまり、馬に話しかけているつもりがないときでも、体の動き(ジェスチャー)で馬と会話しているということだから、馬の周囲でのあらゆる動作が馬に何かを語りかけて(恐怖を与えたり、安心感を与えたりして)いることに注意して動かなければいけない。

 で、基本は馬を驚かさないこと。急激な動きや目を見つめることは、馬を恐怖に落とし入れる。自分が意識しようとしまいと「馬は人を注意深く見ている」ことを忘れるなと。
馬は群で安全を保とうとする
 群れで暮らしてきた馬にとって、群れの中にいることは安全の第一条件。群れの外は危険を意味する。

 群れのルールに従わない馬がいたとき、リーダーがその馬に与える罰は、群れの外に追い出すこと。追い出された馬は、安全を求め群れにもどるために、ルールを受け入れる。
 
 「孤立」=「危険」だから、人が自分に危害を与えるものでないと解れば、馬は人と共にいることによって安心を得ようとする。これをMontyは「私(馬)は群れで生きるもの。仲間無しには生きられません。だからあなた(人)を信じて一緒にいます」と表現している。この性質を使って人に馴れていない馬の信頼を勝ち得て、自分に付き従って歩かせることができるという。

 で、群れのリーダーは雌だという。トップの雌馬が群れの方針を決める。リーダーって雄馬じゃんと思っていたら、雄は繁殖に関するリーダーシップを持っているだけで、その実権の範囲はごく限られているという。

 馬に乗って言うことを聞かせるためには、人は馬のボス(あるいはリーダー)でなければいけないというが、Montyによれば、どんな馬も「人は二本足で腕が二本あって、馬ではない」ことを知っているという。だから人間が馬のボス(最優位の雌馬)になることは不可能。馬に安全(と安心)を与えることができるパートナーになれという。そうすれば馬は人に協力してくれると。
馬は外界の動くものと同期する
 逃げる動物は、自分以外の動くものと同期するという。群れで走っているとき、一部がある方向へ動くと全体がそちらに動いたり、数頭が不安に駆られて騒ぎ出すと群れ全体が騒ぎ出すとか。他とほぼ自動的に同期することは、安全上有利な仕組みなのだ。

 水飲み場で捕食者と被捕食者が一緒に水を飲んでいたりするが、捕食者に襲う気がないときは、被捕食者も穏やかで、やたら逃げ回ったりしない。人と馬が一緒にいるとき、人の心拍数が高まれば、馬の心拍数も高まるという

 こうした性質から、馬を落ち着かせてパニックにさせないためには、乗っている(周りに居る)人が落ち着くことが大事。たとえば、笑顔をつくることでアドレナリンが減り、ゆったりおちつければ、笑顔で馬を落ち着かせることができる。

 だから、呼吸法もとても大事で、心拍を下げて気持ちを落ち着かせる腹式呼吸をマスターすることが、乗っている馬を落ち着かせるためにも大事だという。ただ、これはそう簡単ではなくて、乗っている馬に呼吸法による違いが現れるのに30日の練習が必要だったとMontyも言っている。ただ、馬は乗っている人と同期する能力が、我々素人が思うよりはるかに高いらしいので、「難しいからなあ」とかでなく真剣に練習すべき事かもしれない。

 いずれにせよ、この性質を良く知れば、馬上で乗り手がパニックになってはいけないとか、乗り手が落ち着けば馬も落ち着くといわれるゆえんがよくわかる。大事なことは、「馬がどんなことをしても、穏やかでいること」。地上でも、馬上でも。
馬は他とコミュニケーションしようとする
 馬は捕食者とさえコミュニケーションしよう(仲良くなろうということではない)とする。たとえば、捕食者に襲われたときも、やたらに遠くまで逃げまくるのでなく、ある程度距離がとれたら、振り返って、捕食者がさらに追ってくるのか、あきらめて去るのかを、捕食者のジェスチャーを観察することで見極めようとする。

 これは、闇雲に逃げて却って他の捕食者の縄張りに入り込むことを避けるためだという。

 こういう性質や、[5]の性質を利用すると、馬と会話をして信頼関係を築いて、パートナーになれるという。その方法は、Montyの著書「From My Hands to Yours」に詳しく解説されている。
馬は集中できない・気をそらせることが容易
 馬は一つのことに、他の一切を無視できるほど、集中できない。なにか危険を感じてそちらに意識を集中しているときでも、他方から捕食者が来ることもあるから、他方を無視するわけにはいかないことによるという。

 この気をそらせることが容易という性質は、これを知っていると、いろいろな場面で使えるという。

 たとえば、ハミを銜えるのをいやがっていて上手くいかないときに、別の手でうなじを触ってハミからうなじに気をそらせてハミを銜えさせることかできるという。

 人を咬む馬に対処するときも、咬んできた口や鼻を叩いて止めてはいけない。叩くと悪影響が残る。咬んできた口ではなくて、足を振って馬のスネを(まちがって触ってしまったかのように)蹴って気をそらせる。これを6~8回繰り返せば、咬もうとしたときに馬は自分のスネをみて咬むのをやめるという。

 馬に乗っているとき、馬が首をねじ曲げて左足を咬もうとしたら、左足で咬んできた馬の口を蹴るのでなく、反対の右足で馬の腹に刺激を与えて左足から気をそらせることで咬むのを止めさせるのがよいという。

圧力に反抗する・向かって行く
 馬には圧力に反抗して向かって行く(押されたら押し返す、引っ張られたら引っ張り返す)性質があるという。

 これは、オオカミなどが腹に食いついたときに、オオカミから逃げる方向に動いて腹を引き裂かれるよりも、オオカミの方に動いて押しつぶすとか、圧力を掛けた方が生き残る確率が高かったからだという。
 
 だから、馬をどこかに誘導している途中で、たとえば扉などに馬がぶつかると、扉から逃げるのでなく、より激しく扉に体当たりしたりする。人が間に挟まっていたりすると、押しつぶされてしまう危険性がある。

 走っている馬を止めようとして、手綱を引っ張ったときに、そんなに引っ張り返したら口がいたいだろうにと思うほど、引っ張り返されることはたいていの人が経験しているだろう。

 馬の身体のほとんどあらゆる部分にこういう傾向があるから、たとえば横脚など、乗り手の脚のプレッシャーから逃げる方向に動くことは、調教で教え込まなければできない。

直感に優れ、経験で生きる動物
 馬は自分に危害を加える恐れのあるものを直感的に識別できる。だから、大人が何かしようとしたのに対して怖がることがあっても、同じ事を悪意のない子供などがしても怖がらないというようなことがある。ハンディキャップのある人や自閉症の人などに対して、馬はとても馴染みやすいという。こういう人たちが自分(馬)に危害を加える可能性が低いことを直感で解るからだという。

 また、生き残るために、経験を最大限に活かさなくてはいけないから、一度憶えたこと(とくに酷い目にあったとか虐待されたとか)は絶対に忘れない。そして、不快や不安から逃れるためにはどうすれば良いかを素早く考え出すことができる(バカではない、賢い)。だから、例えば人に乗られることで痛みを何度か経験したら、すぐに、人が乗ろうとして鐙に足をかけただけで、さっさと歩き出して人を乗せまいとするようになる。

 あらゆる決定は経験に基づいて行われる。生き残るためにどうしなくてはいけないかは、過去の経験を引き出して決める。決して、こうしたらこうなるという、将来を論理的に熟考して行動するのではない。
馬を知ること、信頼が大切
 馬の協力を得ようとしたら、馬から信頼されることが必要。馬の周りでは「馬が予測できる振る舞い」をすることで信頼を得ることができる。逆に、馬にとって「不適切な動きをしている」と思わせることは、馬の信頼を壊す第一歩。

 しばしば馬が怖い(巨大、噛みつかれる、蹴られるなど)と言う人がいるけれども、馬をもっと良く知るべきだ。馬には人を傷つける意図などない。もし人に危害を与えそうになったら、それは周りの環境でそうせざるを得なかったから。馬がそういう場合どういう行動をとるかを学んで知っていれば、馬に対する恐怖を取り去ることができる。(RRによれば、大多数の馬は、自分が人間よりも強大で力で人間を圧倒できることを知らないという。)

 馬の性質を学べば学ぶほど、馬の信頼を得ることが容易になる。馬を怖がれば怖がるほど、馬には信頼されなくなる

 馬を怖がる人は、それを克服するためにしばしば、より以上の恐怖を馬に植え付けて、人を恐れさせて支配しようとするが、これは信頼を犠牲にする間違った方法。とうてい50:50の協力関係は築けない。

 馬が自分から「やる気」になってくれれば、馬は協力してくれる。馬のやる気は、恐怖と(不当な扱いに対する)憤りのない環境でのみ引き出せる。そのためには、暴力と力を排除しなければいけない。ただし、そのような環境でも、延々と同じ事を続けると馬のやる気は失せてしまうことに注意。

 Monty Robertsの「From My Hands to Yours」には、このような馬の性質を理解・利用して、馬を調教(鞍を置く、頭絡をつける・ハミを銜えさせる、人を乗せる、などなど)する具体的方法が詳しく説明されている。

 また、跳ねる、立ち上がる、後退する、トレーラーに乗るのを嫌がる、などの問題馬にどう対処・矯正するかなども論じられていて、とても面白い。単に乗って楽しむだけのサンデーライダーにとっても興味深く読める内容。

 Montyは馬にかんするQ&Aコーナーもやっているが、以下は最近のQ&Aの興味深いやりとり。

:私の4才馬は、最初は調教に協力的だったが、あるときから突然非協力になって頭絡さえ付けさせてくれなくなった。Montyの勧める方法を試したがダメ。私のやり方が悪いのか、もっと時間が掛かるものなのか?

どんな場合も馬を責めることは、「夜」に対して「暗い」と責めるようなもの。馬は何にたいしてでもOKと言う訳でないし、気まぐれにNoと言う、そういう動物。問題を解決する最善の道は、それが自分が問題なのだと気がつくこと。(以下略)
 別のQ&Aでは、夜に云々に続けて「馬は神から与えられた自然な性質によってのみ行動し、嘘をついたり、企んで行動することはできない」とも言っている。

 M先生は、必ずしも乗り手が悪いばかりではないというが、調教とかそういう段階では、まずは人に問題があるらしい。というか、調教というのは、問題のある馬(ハミを付けさせない、鞍を着けさせない、人を乗せない、扶助に従わない、などなど)を矯正することだから、(馬に問題があるのは当たり前で)これを正せないというのは人に問題があるということになるのだろう。


 以下の段で紹介するのは、イタリア軍人Federico Caprilliの"Principles of Outdoor Equitation"の翻訳本からの受け売り。この人は、それまで例えば障碍飛越は馬上に躰を真っ直ぐ立てて馬の背で反っくり返るような姿勢で飛越していたものを、ツーポイント姿勢で前傾して飛越するという革命的な体勢を世界で初めて(?)行った人で、近代的野外騎乗の開祖的な人。

 これはかなり昔の馬術書だから軍隊(騎兵)が野山・不整地・崖などを自在に乗り越えて進撃できるようにということで、野外騎乗について書いているのだが、馬に乗るということでは共通することがあるように思う。

 曰く「(馬場馬術は野外騎乗には無縁、全く関係がない)馬はいかなる限定された姿勢も平衡も強制される必要はなく彼自身の意志で服従するものであることを銘記せよ。
 一方馬は彼を支配しようとして彼に苦痛を与える騎手に支配される時には、当然の結果として騎手の支配を避けるための口実と機会とを求めて絶えず気を配り、そしてこの目的のためにあらゆる考えを巡らすに至る。馬は自分自身の身を守ろうとする時、興奮し、狂奔し、急停止し、或いは他のいろいろな方法で騎手の要求に反対する。つまり馬は与えられた苦痛から逃れるために、或いは恐怖のために、或いは与えられる苦痛を見越してかような行動にでるということを記憶せよ」。

 人よりも強大な馬に乗って、これを自由に動かそうとするとき、心のどこかに「馬を支配しなければいけない」というような思いがあると、どうしてもハミをグイグイやったり、拍車をつかったり、鞭をつかったりしてしまいがちだが、馬に苦痛を与える行為は、上のような話につながるから、止めるべきらしい。

 それにしても、馬は臆病だから我々初心者が思う以上に乗り手を怖がる(特に痛みを与えたりすると)らしい。一方乗っている我々初心者は「暴れられたらどうしよう、振り落とされるのでは」と馬を怖がりながら乗っている。お互いに相手を怖がっていたら、ろくな事にはならないことは想像はつくけれど。。。。


 <以下は付け足し>
 馬の生まれながらの性質としては、人に危害を与える意図などもっていないけれども、その馬の経験から、結果的に人に危害を加える馬もいることには事実だ。

 例えば、人に虐待されたりしていて、馬が身の危険を感じ、それを避けるために人に咬みついて、咬みつくことで人を遠ざけて嫌なことから逃れられた経験を積み重ねると、人に咬みつく馬ができあがる。疲れてもう人を乗せたくない状態で、鞭をいれられ無理矢理走らされようとしたとき、「何するんだよ」と尻ッパネしたら、走らそうとするのを止めてくれたという経験が重なれば、サボるために尻ッパネする馬ができあがる。

 だから、その馬が経験してきたことによっては、人に危害を与えることをするかもしれないと注意して乗らなくてはいけない。ただし、馬がそういう危険な行動をしたとしても、それは人に危害を加えることが目的ではなくて、いやなこと・危険なことから逃げたかったからだということを理解しなければいけない。

 イタリアのFederico Caprilliの馬術書はずいぶん古いものだが、読んでおく価値はあると思う。

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