馬の脳・人の脳
最新の脳科学で判った馬の特質
以下は乗馬技術を紹介しているWebページや、馬に関する動画サイト(YouTube)へのポータル。馬の調教に関するポータルも用意した。自分で馬を調教する機会はないだろうが、馬を知るうえでとても役立つ。
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教えて頂いた先生方
・I先生は、たまにしかレッスンを受けない私に、技術的に丁寧に教えてくれた。
・S先生は、技術も教わるが、乗馬クラブの馬と乗り手(客)の話など乗馬技術以外の話をいろいろ聞かせてくれて、とても参考になる。
・H先生は、ユニークな教え「目線のゆがみが諸悪の根源、『真っ直ぐ乗れば、なにもせずとも』馬は真っ直ぐ進む」が持論だったが、それはちょっと言い過ぎ、何もしなければ左右にふらつく馬は多いように思う。
・M先生は、現在習っている御殿場の乗馬クラブの先生。ここはちょっと料金が高いのが難で、年金生活者にはつらいが、マンツーマンでインストラクタを独占して練習できることを考えれば高くもないかも。今はこのクラブがイチオシ。
以下、単に先生と記している場合は、どの先生か明白な場合、あるいは、どの先生にも共通な話、または上の4人とは別の先生のこと。
本文中 CRでは あるいは <CR> と記した部分は Centered Riding(英文)の受け売り。CR2は「センタードライディング2(和訳本)」からの受け売り。
また<RR> あるいは RRによれば、という部分はリアルライディングからの受け売り。リアルライディングは初心者にもとても為になる馬術書。
1.馬は自分の意思で動く動
馬は自分の意思を持って動く動物だから、どんなに鞭で打とうが、拍車で蹴いれようが、馬自身が動こうと思わなければ絶対に動かない。馬が止まろうと思ってくれなければ、どんなに手綱を引っ張っても止まらない。当たり前のことだが、馬に跨って鞭を入れて走らせたり、脚を使ってあれこれやらせていると、この当たり前を忘れて、馬の意思と無関係に、自分が馬を動かしている錯覚に陥る。
ちょっと御しがたい馬に当たると、このことはすぐに思い知るのだが、御しやすい馬に乗っているとこの大事なことを忘れる。
2.馬はバカじゃぁないから
「馬はバカじゃあないんだから」とH先生。ドスンドスン背中を痛めつけたり、拍車グリグリ、ハミで口を痛めつけたり、こんな嫌な乗り方をするヤツを、喜んで受け入れるほど馬はバカじゃあない。ごもっとも。意思も感情も持っているんだから、そんな乗り手に対して「なんて嫌な奴なんだ」と不快感、拒否感にあふれた動きをするのは当然。
そんな動きをする馬に気持ちよく乗れるはずがない。はなはだしい場合は馬が乗り手に対して切れて、振り落とそうとするかもしれない。
だから馬に気持ちよく乗りたければ、馬に嫌な思いをさせる乗り方をしてはいけない。「馬に好かれる乗り方をしましょう」とH先生。うーーん、確かに。。。
3.どうやったら好かれるか
好かれる乗り方はこれだと確信は持てないが、嫌われる乗り方は想像がつく。嫌われる乗り方をしないように気をつければ、好かれる乗り方に多少は近づいていると信じよう。
思いつく嫌われる乗り方は、
①馬を肉体的に痛めつけること:
背中にドスンドスン衝撃・苦痛を与える、手綱を無理やり引っ張って口に痛みを与える、拍車で腹を傷つける、などなどたくさん。
②馬を混乱させること:
脚で前進を指示して走り出したら手綱に縋り付いて引っ張るなど矛盾した扶助を与える、手綱操作で右へ曲がれと言っておいて左へ曲がるように体重を掛けるなどして馬がどうしてよいか判らなくする。
③馬が飽きているのに同じ運動を延々と続ける:
馬だって飽きていやになったりする。
1. 馬は臆病、危険からは逃げの一手:
馬は「速く走って危険から逃げる」ことで生き残ってきた動物。逃げるのがほぼ唯一の防御手段で、何かあったら逃げるということがDNAに刷り込まれている。だから、耳慣れない音や見慣れないものからは、ひたすら走って逃げる。
特に、突発的な出来事・対象物からは、反射的に逃げる。落ち着いて見定めるなど悠長なことはしない。外乗でゆっくり駈歩をしていたら、20m近く離れた横合いのベンチでお弁当を食べていたおじさんが、こっちを向いて被っていた帽子をとって頭上で振った。これに驚いた馬は横っ飛び、爆走し始めた。幸い5、6歩でふつうの駈歩に戻せたが、暴走落馬事故になっていたかもしれない。人間など見慣れているはずなのに、その人の動作がちょっと見たことのないものだと、強い恐怖の原因となる証。
馬に乗っている間中、人にとっては何でもないことでも、馬にはとてつもない恐怖を与える可能性があると意識していることが必要。
2. 慣れさせれば動じなくなる:
見慣れないものなら、紙屑が風でガサガサと吹き寄せられてくるのにさえ怯える。乗り手の帽子が風に吹き飛ばされたことにさえ、驚いて跳ね跳んだり、暴走したりする。馬上ウェディングなどとウェディングドレスで馬に乗ることもあるが、これも大変なこと。慣れていない馬はドレスが風に翻っただけで怯えて暴走する。
しかし、慣れさせさえすれば、なんでもOK。馬上で銃を発射してもその音に動じないように慣れさせることもできる。M先生のところは自衛隊の訓練で大砲の音がドカンドカンとものすごいが、馬はヘーチャラ。「慣れさせれば」というのは、それが馬に危害を与えるものでなく、安全なものなのだと解らせること。ちょっとずつ、辛抱強く同じことをすこしずつ強度を上げながら経験させて、安全なものだと解らせる。こちらの動画でそうした様子を紹介。
馬がどんなことに慣れているかは、その馬を管理している乗馬クラブの調教内容とクラブの環境によって決まる。初めてのところで、初めての馬に乗るなどのときは、馬がいろいろなこと(たとえば柵外の木立が風でざわつくなど)に慣れていないかもしれないと考えて、用心して乗るべき。
3. 論理的思考力ゼロ:
馬は論理的に考える能力は皆無だと思う。
例えば、歩いていてロープが肢に引っかかったとき、人間なら、こっち向きに引っかかっているからこちらへひっぱったら余計に絡む、あっちに足を動かせば外れる、と考えて行動するが、馬はそんなことは考えない。やたらともがくだけ。刈り取った木の小枝が沢山積んであるところに肢を踏み込んでバランスを崩したりすると、パニックになって飛び跳ねて脱出しようとする。人間のようにいったん落ち着いて状況を見定め、こっちを踏んだら下へ突き抜けるかななどと事前チェックして足を運ぶなどはしない。馬任せだとめちゃくちゃにあっちこっち踏み荒らし転倒しかねない。
危ない状況になったら「考えるよりまず逃げろ」というDNAで縛られていて、ちょっと状況を考えれば簡単に危機を脱出できる場合も、逃げだそうと暴れるあまり結局逃げ出せない。賢いんだから馬はなんとかするだろうと考えてはいけない。「馬はバカだからとんでもないことをしでかす」と考えて人間が助けてやる必要がある。ロープが足に引っかかった場合など、足が抜ける向きに馬の向きを変えてやるのは乗っている人がやらないと、馬の自分の知恵ではできない。
また、乗っていた人が落ちて地面に這いつくばっていたりすると、それは乗っていた人(すくなくとも馬が恐怖する対象ではないはず)だとは認識できないのではないか?骨折転倒した馬が落ちた騎手を気遣ったという美談があるが、特殊な例。普通は落ちた乗り手は、普段見慣れぬ形状で地面に転がっているので恐怖の対象になる。もっとも、同じ人だとは認識できていても、落ちたということで乗り手は馬にとって安全ではなく危険な存在に変わったのかもしれない。なにしろ、落ちるときには手綱にしがみついてハミで口を痛めつけたり、鞍の上でドスンドスンやって馬を驚かせたりしてるからなぁ。そんな危険な乗り手は恐怖の対象でしかなくなってしまっているのかも。
4. 記憶力はすごい:
上のような意味ではとてつもなくバカだが、記憶力は抜群。この記憶力の良さが調教にはとても役立つが、調教以外でも影響がある。
たとえば外乗コースのある場所で滑って転びそうになったりすると、以後その場所では非常に慎重に歩を進める。馬によっては、それまで順調に走っていたものが、その場所でピタッと止まってしまったりする。逆に、いつもの外乗コースで「ここからは走るところだ」などと覚えていて、乗り手の扶助に関係なく猛烈に走り出す。「駈歩はここで終りね」という地点にさしかかると、よほど鞭でも入れない限り、勝手に歩を緩める。
馬場内でも特定の位置で同じ運動をしていると、それを覚えてしまい、扶助なしでもその位置で同じ運動を始めてしまう。これを許してはいけない。馬にこの場所ではこうするんだ、と覚えこまれないように、同じ場所では同じ運動をしないといった工夫が必要。駈歩がうまく継続できず、途中で止まってしまうような場合も、同じ場所で速歩に落ちてしまうことがよくある。これを何度か繰り返していると、馬はその場所では駈歩から速歩に歩様を変えるのだと覚えこんでしまうから、鞭を使ってでもその場所で駈歩を続けさせる必要がある。
馬が「ここではこうするという記憶」に頼って動くのでなく、瞬間瞬間の乗り手の扶助に従って動くようにしないといけないのだが、かなりの技量がないと馬の記憶力を上回る扶助というのは難しい。馬がここではこう動くんでしょという記憶に頼って運動するのでなく、ここではどうするんですかと乗り手の扶助を頼りにするようになれば一人前?
5. 馬のDNAを上回る乗り手の技量:
乗り手がしっかりしていれば、馬はつまらぬものにビビったりしない、ちょっとしたことに驚いて暴走などしないとか言われる。「イヤー、馬は臆病だねぇ、蹄跡に落ちていた木の枝にビビッて枝を迂回して行くんだよ」などと馬術部にいたという友人に話したら、「それは馬が乗り手をなめているからだよ」と言われた。乗り手に敬意を払っているなら、つまらぬものにビビらないと言う。
この手の話はよく耳にする。実際、初心者が乗った場合よりも、上手といわれる人が乗った場合のほうが馬はバタつかない。それに、初心者は馬がバタつくと自分も慌てて馬のバタツキを助長してしまう。RRによれば、絶対に馬に狼狽や不安を見せてはいけない・(自信がなくても)自信があるように振る舞うことがとにかく大切だという。
何か見慣れぬ怖いものがあっても、そんなものより乗り手のほうが怖い存在で、乗り手に集中し従わないとえらいことになると思わせるのか、あるいは、なにか見慣れぬ怖いものがあるが、この乗り手がなんとかしてくれる、この人が乗っている限りは乗られている俺は安全だと思わせるかのどちらかであれば、見慣れぬものに驚いて暴走という危険は回避できる。いずれにしてもDNAに刷り込まれた「見慣れぬ怖いものからは逃げる」という馬の性を抑え込んでしまえるというのだから大変な技量。いつになったら、こういう強大な力、あるいは、馬からの全幅の信頼を得ることができるのか。道は遠いが、もしそうなれれば、今より格段に安心して乗れることは確かだ。
そういえば、M先生には「馬がボロをするために止まることを許しちゃあダメですよ」と言われた、馬は歩きながらでもボロをできるんだから、歩け(走れ)といって歩かせて(走らせて)いるときに、ボロをするために止まるということは、乗り手に対する敬意が足りない証拠だと言う。走りながらなんて出来るのかしら(生理的に可能なのか?)と思っていたら、レッスンで走っているとき、「今馬がボロをしてました。(止まらなかったでしょ)いいですねぇ」と言われた。意識して走らせていた訳ではなかったが、ボロをしながら走らせることができたらしい。しかし、ボロのために止まることは許してはいけないが、足がかゆくて(あるいは虫がたかって)口で足を手入れするために止まるようなことは許してやらなければいけないらしい。これを許さないのは虐待だという。
「馬に乗る」という場合、当然野生馬に乗る訳じゃあない。
人に乗られてこうされたら右へ曲がるんだよ、などと教え込まれた馬に乗る。
1.全ては調教の結果:
乗馬の教本にあるような扶助で馬が教本通りに動くのは、馬にそのように動けと教え込んであるから。手綱で首を右に誘導して右にやや体重を移せば右に曲がるのも、そう調教した結果。調教によっては、いくら片一方に乗り手の体重がかたよっても、馬は何の問題もなく真っ直ぐ進むということはYouTubeに出ているtrick ride などを見れば判る。前に進めるときは両脚で馬体を圧迫するといっても、調教しだいで脚で馬腹を圧迫などしなくても馬は走ったりとまったりなんでもできる。
この「教え込んである扶助」を乗り手が再現できれば、馬は教え込まれたとおりに動く。だから、馬を自由に操れるかどうかは、揺れ動く馬に安定して跨って、その馬が訓練・調教された扶助を忠実に再現できるかどうかに係っている。
2.先生は上手い:
調教専門の人がいない小規模なクラブでは、私たちに乗馬を教えてくれる先生がこうした訓練をほどこす。先生が馬に乗って見本を見せてくれる。大仰な動きをせずにちょっとした動き(扶助)で馬を思うがままに動かす。私が乗ったらちっとも動いてくれないのに、先生が乗ったらなんでこんなにスイスイ動くんだろうと、先生の技量をうらやましく思うと同時に自分の下手さが嫌になる。
だが、「その馬は先生が調教をしたんだ」ということを思えば、「自分は先生の動きを忠実には再現できていないだけなのだ」と冷静になれて、自己嫌悪に陥ることもない。こっちの足をこうして、こっちはこう、体をこうして手綱はこうと先生に教わる。しかし、その通りやったとしても、馬に伝わる刺激としては先生のものと同じではなく、微妙に違う。力を入れる方向や鞍への重みの掛かり方などもそう簡単に再現できるはずがない。この違いを馬が感知(馬は些細な違いにとても敏感)して、先生の場合のようには動いてくれない。そこで、いろいろやってみて先生が動かしていたように馬が動いたときに、「ああ、先生の扶助はこうやっていたのか」と知ることになる。乗っている人が馬に調教されて扶助のやり方を知るようなもの。
3.だれでもが調教者:
先生は同じことを繰り返して馬に教え込むわけだが、馬に教え込むのは先生ばかりではない。私のような初心者も馬にいろいろ教え込んでいる。「走れ」の扶助で走り出した馬の手綱にしがみ付いて「走れなんていってないぞ、止まれといってるんだ」と教える。馬が扶助に従っているのにぐいぐい同じ扶助を続けて「そういう意味の扶助じゃないんだよ」と教える。乗っている間中なにか(多くは良くないこと)を教えている。
先生が乗ろうが、初心者が乗ろうが馬にとってはいやなことをやられたら、そのいやなことからは逃れたい。逃れることができたら「これは、そういう意味だったんすね」と学習する。誰が乗っていても同じ。しかし、先生の場合は「これ」がいつも同じだから、しっかり正しく学習できる。初心者の場合は体勢はいつも不安定、同じことをきちんと再現できない。しかも馬が扶助に従ったとしても、手綱に縋り付いたり、脚でしがみ付いたりして馬にプレッシャー(不快感)を掛け続けるので、馬は扶助に従うことのメリット(プレッシャーからの解放)を見出せないので、学ぶというより混乱する。けれども何かを学習する。
I先生のクラブが2歳半の若駒を買った。鞍を置ける程度から先生が調教を始めて3か月、一応三種の歩様はできるまでになった、というお話で、乗せてくれた。父親がハフリンガー種で見かけは小さいが、背幅も広く乗ってみると結構大きな馬に乗っているようなしっかりした感じ。
乗る前に、調馬索による調教を見学。先生の「常歩」「速歩」「ほー」という声で歩いたり走ったり止まったり純粋に声だけで動いているようだ。賢い馬です。
そのあと「では乗ってみましょう」ということで、乗った。馬に跨ったら先生は「気を付けて」と言う。何に気を付けるかというと、馬がちょっとしたことに驚いて跳ねたり走ったりすることに対して。
馬上から声をしっかり出して、「駈歩」と大声をだしてから駈歩の扶助を与える。素直に走ってくれた。「ほー」と声を掛けて半減却・手綱を控える。ちゃんと止まってくれた。「はい、ほめてー」と先生。ポンポンと首をたたいてやって「よしよし」と褒める。なーるほど。声にはしっかり反応するので、「駈歩」といって駈歩の扶助を行って走らせることで、「この扶助は駈歩しろということなんだ」と判らせるようだ(素人のあて推量)。
乗せてもらう前に先生が「馬に乗っているとき寡黙すぎる。もっと声を出さなきゃぁ」と言った。「なにをいっているのかな?」という感じだったが、こういうことだったのかな。脚や手綱でごちゃごちゃやるよりも、声で乗り手の気迫を伝えるのが大事だ、気迫というものは馬によく伝わるんだと言う。「走れ」という気迫を伝えて走らすというのは、馬という生き物に乗っていればこその話。
「はい、両足を開いて蹴る真似をして」と言われ、両足を広げたら、馬はバッと走り出した。「ほらぁー、だめだめ」と先生。「蹴って合図を送っていないのに、勝手に走り出したら抑えなくちゃぁ。勝手なことをやらせちゃダメ」と言う。なーるほど、そうやって一つ一つ覚えこませていくのか。
50cm程度の障碍の真似も跳ばせてくれた。乗り心地の良い飛越をしてくれる。「3か月で素晴らしいですね」と言ったら、「最初は大変だったんだ、障碍だって跳ばずに体当たりして柵をはね飛ばしていったんだから」という話。跳びこせるような障害物があったら、馬なら自然と跳びこすだろうと思っていたら、そうではないという。跳び越えるんだよ、と教えないと跳ばないそうだ。
どうやら障碍に限らず、人が馬に乗ってやる(やらせる)ことは全部「こうやれよ」と教えたことらしい。
ちょっと動かしたら、「はい、それで充分。褒めてやって」と言う。次はこれをやってみてと先生。これも素直に動いてくれる。ちょっと動いたら「それで充分。はい、褒めてー」と先生。うーーん、こうやって根気よく、すこしずつやらせていって扶助の意味を理解させて育てるのか。人が楽しく乗れる馬を作り上げるのはほんとに大変なことなんだ。
馬に乗るときは「人は馬のボスでなければならない」ということが乗馬教本には書いてある。しかし、私がボスだとは認められていないことは明らか。
馬場でH先生に教えてもらっている。私は馬に乗っていて、先生は地上。先生が「そこはこうやって、なんちゃらかんちゃら」と言いながら近づいてくると、馬は勝手に先生の方へ行って止まってしまう。いくら蹄跡を進み続けさせようとしてもダメ。馬はあきらかに、乗っている私の指示でなく、先生に従うべきだと思っている。乗り手がいくら脚を使おうが手綱を使おうが、それよりも先生の存在の方が効く。
馬にしてみれば、毎日調教、給餌と面倒を見てくれる先生と、たまに来て乗るその他大勢の一員の私とどちらがボスか言うまでもないのだろう。でもこちらは背に跨って手綱を持って、鞭さえ持って、脚でああだこうだとやってるんだからねぇ。乗られているときぐらいこっちに敬意を表せよと思うが、馬にとっては「ボスはあっちにいるのに、なんなんだこいつ、うざいなぁー」程度なのだろう。
もっと情けないというか悔しい話。ある夏の日H先生が軽く乗って見せてくれた。10分もしないのに馬は汗だく、腹から汗がしたたり落ち始めた。私が一鞍乗っても、汗が腹からしたたり落ちたりしない。「なぜでしょうか」と先生に訊いたら、「馬も気をぬけないと運動量が違う。同じだけ動いても、絶えず乗り手から次にどういう指示が来るのか神経を張りつめていると運動量が多くなるのだよ」という。
要は、先生が乗ると「次にどんな指示をされるのか」と緊張して運動するけれど、私が乗ったら「マイペースで、適当に流しておこう」と気楽に運動するので汗も大してかかないということ。
この話を聞いてから、馬が多少の汗をかいても「すまないねぇ」と思わなくなった。馬が、乗り手の扶助に従おうと一生懸命運動してくれていた訳ではなく、ヘボい乗り手を軽視して軽く流していたのだと知ったから。乗り手がヘボいと、馬はケナゲさなど示さないのだ。まあ、馬からしてみれば「何でへぼい乗り手に一生懸命従わなければいけないんだよ。冗談じゃない」ということで、しごく当然の話なのかもしれない。
どうやったら私がボスだということになるのか? 「練習を積んで上達しろ」というのは王道だが、あと何年かかるか分からない。言うことを聞かなかったらすぐに懲戒というのもあるが、残念ながら鞭や拍車といった過激な方法しか知らない。馬が先生の方に近づいたからといって鞭を入れて叱ったりしたら先生には「おいおい、何すんの!!??」と顔をしかめられそうだ。I先生は、馬を右にまげようとしているのに左に行った時など、「ほらぁ、そんなの許しちゃだめですよ。捻じ曲げてでも右に行かせなきゃぁ」と言う。H先生は「だめだめ、そんなことやっても」と無理やり捻じ曲げるようなことは許してくれない。どちらも正しいことだと思うが、あまりに言うことを聞いてくれないと「コノヤロウ」と鞭でも使いたくなる。ただし、こちらのビデオを見ると、ボスだ、鞭で懲戒だとか言わずに馬と人とはとても良い信頼関係を築くことができるのかなぁと反省させられる。しかし残念なことに、サンデーライダーはこのビデオのようなことができる環境にないことも確かだ。
まったくの余談だが、「ボス」という言葉は実は日本語の「坊主」が起源だという話をどこかで読んだ。宣教師が日本に来始めたころ当然在来宗教と衝突した。昔は熱烈な仏教者が大勢いたようで、宣教師の本国への報告に「ボンズ(坊主)というのがとんでもない悪者だ」とか書いてあったということで、これから坊主ー>ボンズー>ボス となって西欧にボスという言葉が定着したとのこと。「和をもって貴しとなす」という日本にそぐわない「ボス」という言葉が日本語オリジンだなんて愉快な話。
(注)このページを読んでくださった方から、「ボス」について、船乗り用語の「ボースン」(英語のboatswainで、甲板長、兵曹長という意味)が語源だという説、また、オランダ語baas(ご主人様)が語源と言う説もあるとのとコメントをいただきました。
馬に乗って効率よい練習ができるためには、馬が、乗り手の扶助に真摯に耳を傾けてくれる必要がある。けれども、馬は見も知らぬビジターに敬意を払い耳を傾けるような、お人好しではない。人が跨がった瞬間から「こいつにはどのくらい我が儘が通るんだろう」と乗り手を品定めする。
これに対して、毅然と対応すれば「こりゃ、あんまり自分勝手はできないようだ、言うことをきかにゃあまずい」と思ってもらえるし、我が儘を見過ごしていては「こりゃぁいいや。言うことを聞か無くても大丈夫。サボれるぞ」と思われてしまう。馬にサボれると思われたら、その後まともな練習はできない。素直に反応してくれないから、どうしても扶助が粗くなったり、無理して姿勢が乱れたり質の悪い練習になってしまうという訳だ。
だから、跨がった直後から、全神経を馬に集中して、自分のやっている扶助が馬にどう通じているか、馬がどんな反応をしているかを感じ取って、馬が充分に乗り手の指示を受け入れて、積極的に動く気が満ちている状態にもって行かなくてはいけない。場合によっては、鞭で乗り手に注意を向けるようなことも必要。馬を注意深く観察して、あらゆる手段を使って馬とのコミュニケーションを成立させておかなくてはいけない。
で、最初の10分でこれをやるようにせよとM先生は言う。最初の常歩の間に、馬をよく観察して、コミュニケーションを成立させよと。
武術の極意書というのがある。ところが、書いてあることはだいたいは訳が判らない。訳が判らない理由の一つは、読み手のレベルが理解できる技量に達していないこと。乗馬の技術書でも、こういうものが多い。
乗馬ライフのツーポイント解説記事もそんな極意書のように読めた。「ツーポイントでの推進の扶助は(脚での馬体圧迫によるものでなく、脚の)関節をつなげて体重によっておこなう」というような説明は、私のような初心者にはどんなことか解らない。「関節をつなげて」と言われても、私の脚の関節はちゃんとつながっているし、それ以上どうやることを「つなぐ」というの?と訳が判らない。体重を掛けろといっても、普通に鐙に乗っていれば体重は鐙に掛かるのにそれとどう違うようにしろというの?とこれまた訳が判らない。
むかし、千葉周作が北辰一刀流の道場を開いたとき、禅問答のような指導をするのでなくて、竹刀を持つときは小指で握って人差し指などはそえるだけ、とか非常に具体的で判りやすい指導をして大評判になり大いに繁盛した。しかも指導を受けた人は実際に大変上達が速かった。乗馬界にも千葉周作のように素人判りする教えをしてくれる人はいないものか。
乗馬ライフの解説を書いた人は、長年の研究の結果一番大事なのは「関節をつなぐ」ことだったんだ、と悟ったのだろう。でも、せっかく、発見した秘訣を紹介しているのに、これで解る人はごく少数だろうからもったいない。今一歩噛み砕いて素人判りする説明になっていれば、もっと多くの人が上達できるのではないか。私も上手くなれるのではと夢見てしまう。
ただ、こうした先達のご好意(苦心の末発見した秘訣を開示してくれる)に文句をぶーたれて、ほんの聞きかじりの初心者の分際で「極意を素人判りするように解説してくれ」とかいうのは、とんでもなく虫がいい話。私には難解な解説も、私より高レベルの人には「なるほどそうか」という判り易い説明なのかも知れないし、私ももっともっと上達すれば、「あ、なるほどこういうことを言っていたのか」と次の段階にステップアップする助けになるかも知れない。だいたい、こんなぶーたれ文句は相手にぜず放っておけば、多少上手くなってそれまで難解だと文句を言っていたものが判るようになって文句を言わなくなるか、こりゃやっぱり難しいと上達をあきらめてしまって文句を言わなくなるかのどちらか。馬術関係者からは無視されて当然な訳だが、そうは言っても馬術界の千葉周作が出て欲しいものだ。
M先生は、馬との関わり合い方、馬の状態の把握方法、扶助の仕方など非常に分かり易く具体的に教えてくれる。私にとっては非常にありがたいが、その技術的教えの部分を実践する身体的能力が追いつかない。運動の主体は馬だとはいえ、乗る人の身体能力をアップさせておかないと、指導されたことを実践できず上達がおぼつかない。
Webに掲載されていた速歩のビデオをI先生に見せて技術的質問をしたら、先生いわく「これは参考にならない。このビデオの馬も人も相当高級なレベル。初心者に乗馬を指導するには練習用の馬を使うので、高度な馬場馬術ができるような馬を前提とした指導は意味がない」と言う。
「初心者の練習用の馬!?そんな低レベルの馬じゃあ情けない」と一瞬思ったが、高級馬は、周りから見えないほどの微かな扶助にも反応してくれないと困るから、敏感で繊細な馬であることが多い。だから矛盾した扶助(手綱で右へ行けと言い、体重扶助で左へ行けというなど)でストレスを溜め易い。ストレスが高じると、プッツン切れて乗り手の言うことに反抗したり(というか、乗り手の扶助が矛盾していて、どうしていいか判らなくなる?)、甚だしい場合は暴走したりして、練習にならない。
だから、初心者には、ちょっと鈍感なくらいの馬を使う。これなら安全。鈍感だということは、軽い扶助ではダメだということで、両脚で馬体を挟んで前進を指示する場合も、軽く挟んだくらいでは動かない。力いっぱいギューっとやらなくては前進してくれない。はなはだしい場合は「蹴って、蹴って」とインストラクタに言われてドカドカと蹴らなければ動いてくれない。
しかし、こういう初心者練習馬でばかり練習していると、強い扶助でないと動いてくれないから、どうしても扶助が荒くなる。気がつかないうちに拍車が触っていても、鈍感な練習馬は反応しないから、拍車が触っていることに気がつかせてくれない。それに、矛盾した扶助を出していても、「お前の扶助は矛盾しているぞ」と教えてはくれない。だから、こういう馬で上手くなったつもりでいると、実は悪癖が身に染みついてしまっている恐れがある。
身の程に合わせた馬に乗れというのはその通りだが、多少上のレベルの馬に乗って、「お前の扶助はおかしいぞ」と教えてもらうことも必要。上級の馬は、拍車が触る、手綱を引っ張る、上体が歪む、などの意図せぬ動きに敏感に反応してくれるから、悪癖指摘の良い先生になる。なにせ、乗っている人のやっていることを直に感じているんだから、脇で見ているインストラクターよりも、鋭くチェックしてくれる。
元大学馬術部の人からは「出来る馬は3歩毎の踏歩変換くらいなら誰が乗ってもできる、まず馬に習い、その運動を体験し、慣れることが重要。初心者の頃、乗った馬にいきなりパッサージュを始められ、ビックリしたことがある。勿論、馬が勝手にやったのです」と教えられたことがある。つまり、馬に高度な動きをしてもらって、その動きに体を慣らして、馬上でどのようにふるまえばよいかを馬に教えてもらって上達する方法もあるのだ。レベルの高い馬にレベルの低い乗り手が教えてもらうという訳だ。
初心者を高級馬には乗せられないというのは、「危ないから」という一面もあるが、初心者に高級馬を壊されて(高度な動きについてゆけない初心者が怖がって手綱を引っ張ったりして、馬に「そういう高度な動きをするな」と教える。)しまうので、その馬を再調教しなければいけなくなる、「初心者のためにそんな手間暇掛けていられるか」というのが本音なのだと思う。
ところで、逆に高級な乗馬技術を持っている人が低レベルの馬に乗れば、問題なく上手く乗れるかというと、必ずしもそうではないらしい。ハミ受けも訓練されていないような馬に、おれの言うことをきけとばかりにぐいぐいやっても、馬に自分の扶助を了解させることはできず、馬を御すことができないという。もちろん、自分の技術(高度な乗り方)を押しつけるのでなく、「あなたはそこまで訓練されていないのですね、じゃあこうしましょ(この程度にしておきましょ)」とその馬に了解できる範囲で乗れば、高度な技術レベルの人は拙い低レベル者よりも、ずっと上手く乗れる。
股関節の固い人もいれば柔らかい人もいる。人それぞれに、得意な動きと苦手な動きなど全部違う。それを一緒くたにして、こうやって乗らなければいけないと一律に押し付けるのは間違いだ、という話をどこかで読んだ。
馬それぞれにも違いがあって、乗り手のちょっとした動きを扶助と勘違いするような敏感な馬に、「脚で推進が肝心」とグイグイやっても、馬はビビってパニックになるだけ。馬術的調教を受けていない馬に、強いコンタクトを取ろうとしても、馬は「何をするんだ、口が痛いじゃないか」となって扶助に従ってくれるどころではない。それに、調教の違いによって、こうやればこう動くというのも違っている。馬それぞれに違った「特性」がある。
同じ馬でも、疲れ具合や気分によって、その時々で違いがある。昨日は上手く乗れたのに、今日は全然ダメだというとき、乗り手が悪い場合もあるが、その時の馬の調子による場合だってある。そんなときは自分の技量だけを反省するよりも、馬の具合を感じ取って対応(単にだれているなら気合いをいれる、疲労が募っているなら切り上げるなど)しなければならない。特に初めての馬なら、それがどんな馬なのか感じ取って、「この扶助にこういう反応をするんだ。じゃあ、これなら理解してくれるよね」と、お互いがコミュニケーションをとれる折り合いをつけることが大切。
M先生は、この「馬の特性」が把握できないと、うまく行かないときに「どこまでが自分の問題で、どこからが馬の問題なのか?」 という、決定的に重要な問題が解らないと言う。多くの人が、馬の問題を 自分の問題として不必要な反省をしたり、または自分の問題を馬のせいにして、「するべき反省」をしない。 だから、「上手だ」という事は、 乗った時に 「どんな馬が」 「現在どういう状態にあるか」 がまず分かる事であり、そして、その情報に基づき
「その馬とコミュニケーションを取るのに有効な手段で」 「最大限有効なコミュニケーションを取る事ができる」 という事。こういうことができるためには、できるだけ多くの馬を経験することが必要。たまには違うクラブや環境(たとえば外乗など)で乗ってみるべきだという。
最近教えられたある指導者の言葉「わたしたちは馬を作るのではなく乗るのですから、その馬がどのような調教を受けてきたのか、どこまで出来るのかを把握し、自分の実力を勘案し、折り合いをつけることが、どんな馬でも楽しむ秘訣ではないか、と思っております」は実に肝に銘ずべき言葉。
いろいろ教わったことを、あれこれ試しても「なあーんか上手くいかない」「思うとおりに動いてくれないなあ」「これで良いはずなんだけど、この扶助のどこが悪いんだろう」ということがあるけれど、これは必ずしも乗り手が悪いばかりではないらしい。馬は生来怠け者(出来る事でも、やらずに済むならやらない)だから、「ああー面倒だなぁ、はいはい、走るのね、じゃあ走りますよ、これでいいんでしょ」的な状態では、乗り手の扶助に的確な反応をしないらしい。
こんな時には、「こらっ 言うことを聞け!」という厳しい鞭の一発が効果的。これで、「あっ、こりゃあ言うことを聞かないとヤバいぞ」と思ってくれると、その後全ったく反応が違って、馬が見違えるようになる。もちろん、この鞭でバッと走りだそうとしたり、ちょっとした反抗をするかも知れないが、それはビシッと押さえ込むことができなければいけない。
押さえ込めずに、乗り手が怖がってそこで引っ込んでしまうようだと、馬は「(鞭を入れられ)厳しく求められても、一寸反抗すれば言うこと聞かずとも無問題(もーまんたい)じゃん」となって、言うことをきかなくなってしまう。
乗り手の扶助が悪い場合もあるけど、ちゃんと教わったとおりやって、普段は通用している扶助が上手くいかない場合は、馬に乗り手の言うことを聞こうという気が無い場合が8-9割方らしい。上手い人が乗ると、馬は「こりゃあサボれない、いうこと聞かにゃあ」と思うらしいから、こちらに技術力が不足していることは確かだが、つたなさを反省するばかりでなく、鞭の一発で馬が言うことを聞く気になってくれるなら、鞭を使わない手はない。
「上手になれば力は要らない」と言うが これは嘘。合気道や柔道の達人が「力じゃないよ」と言うが、これも嘘。達人になるまでには普通の人の及ばない努力(訓練)を積んでいるから、達人の力は普通人の何倍もある。彼らからすれば「力じゃない」かも知れないが 鍛えていない者と較べればとんでもなく大きな力。
乗馬も同じ、「有名選手たちは、鍛えているから腹筋背筋に力があるんです。しかも、腹筋背筋に力を入れて乗る訓練をしているから、力まなくても自然に力が入っているのです」とH先生は言う。乗馬情報誌は、「乗馬に力はいりません。オリンピックの女性選手を見てください。力が必要なら彼女らが好成績を取れるわけがありません」などというバカな記事で、読者に誤解を与えるのはいいかげん止めた方が良い。有名女性選手に「両腿の間に手をいれてみてください。では、その手を抜いて」と言われて両腿の間に挟まれた手を引き抜こうとしたら、金剛力、びくともせずまったく引き抜けなかったというくらい、女性でも、上級者は力が強い。
「Ride With Your Mind CLINIC」(ISBN:978-1-905693-04-7)には筋力、特に体幹と太腿の筋力の重要性が解説されている。上手い人は端から見て筋力を使っているように見えないし、「どうやっているんですか?」と聞かれても「何もしていません」と言うけれども、それは無意識に筋力を使えるレベルに達しているからで、筋力は絶対に必要だということが解説されている。
ただし、その筋力は、主に姿勢・体勢を維持するのに使うのであって、前進の扶助のために馬体を締め付ける筋力として必要だということでは無いらしい(もちろん強い扶助を送る役には立つだろうが)。だから、とても重要だという太腿の筋肉も、馬を締め付けるために使うのではなくて、内側の太腿を閉じる筋肉と外側の股を開く筋肉の両方同時に力を込めて拮抗させて、がっちり固めるように使うのだという。
体幹の筋肉も同じ、腹筋や背筋(および腰椎回りの深層の筋肉)を同時に使って腰椎がグラグラしないように筋肉でがっしり固めることが大事。「身体を硬くしてはいけない、随伴が大事なんだ」と背骨をふにゃふにゃ、腰を漕いで柔らかく乗るのは正しい乗り方でないという。体幹はしっかり固めて、股関節の開閉と、膝、くるぶしの柔軟性を使って随伴するのが正しいという。
「そんなことが出来るのか」という話だが、この本に掲載されている上級者の乗馬姿勢を見ると、上体のどこも柔らかく動いている様子はなく、歩様のうちのどのステップでも美しい真っ直ぐな姿勢であることに感嘆してしまう。しかし、この本でも嘆いているが「馬が正しい姿勢で(背中を持ち上げて)歩を運べば、乗り手は正しい(美しい)姿勢を楽に保てる(鞍の動きがスムーズになり乗りやすい)」「乗り手が正しい姿勢を保てなければ、馬も(背を持ち上げた)正しい姿勢を保てない(鞍にバンバン餅つきされたら、馬は背中をへこませてスムーズな動きをしない)」というどうしようもないような「ニワトリと卵」話。トホホホ。。。。
・馬と人
馬はどうしてこんなに人が乗るのに都合よくできているのか不思議な動物。馬以外の動物は人が直接に跨って乗るのに適しておらず、馬だけが人が跨がって乗って活動するのにちょうどよい体の構造と性質をもっている。
裸馬に跨ってみればこのことは一層実感できる。馬の背は細すぎず広すぎず、前後左右にかなり安定して跨っていられる。背は後方に三角形状に広くなっており背に跨った人は後方にずれにくくなっている。前方にはき甲が隆起しており、前方にもずれにくい。しかも、その前方にはちょうどよい長さ高さでしっかりした首がついており、これが馬上から見た安心感を与えてくれる。象やラクダも乗ることができるが、爽快さにおいて馬にはかなわない。
草食を群れで生活(他動物を襲わず、リーダーに従う)しており、性質も辛抱強く人に慣れやすく記憶力が良く臆病という調教に適した性質を持っている。これらほぼ全部の性質が人が乗って思うとおりに動かすことに役立つ。馬繋場に何時間でもじっとつながれていたりするのを見ると、なんと大人しいことかと感動さえする。
そういう馬に乗って楽しませてもらっている訳だが、「人を乗せるのが好きな馬なんかいないよ」という意見と「人を乗せてその人と一緒になにか達成することが楽しい馬もいるんだ」という意見があり、どちらが本当か解らない。馬に人と一緒に何かをすることの楽しさを与えるなどというのは、相当に馬と人との信頼関係が築かれていないと難しそうだとは想像できる。自分の馬を持たず、馬と接するのは乗っているときだけというのでは、こうした信頼関係を築くのは難しそうだ。
・自分の馬が欲しい
自分の馬を持っていれば、自分好みに調教することもできる。予約がいっぱいで乗れないということもないし、毎回の騎乗料など不要で乗りたいだけ乗れる。なにせ「自分の馬」だから馬との絆も強固なものになる。しかし、これは結構敷居が高く、簡単には手が出せない。
まずは金銭的負担。自分の馬だといっても、乗馬クラブに預かってもらうことになるから、クラブに預託料を支払わなければいけない。預託費用はおおよそ月10万円程度(格安だと6万円程度も)だから月給の3~4割を馬に費やしてしまうことになる。これだけで年に百万円超、5才の馬を自馬にしたとして、寿命を25才とすれば馬の購入費以外に二千万円以上のお金が必要。それに定額の預託料の他に、病気の治療代・予防注射代、蹄鉄の取り換え代、運動させたり調教してもらうための費用、はては日光浴代などといった名目で追加費用が沢山掛かる。だから、預託料10万円ならカスカスなんとかなる、という程度ではダメで、相当余力がないと馬は持てない。
この金銭的負担をやや軽くするための制度として、「半自馬」という仕組みを用意している乗馬クラブもある。これは文字通り半分自分の馬ということで、自分が乗りに行けば優先して自分が乗ることができるが、自分が乗らないときはクラブの馬として他の会員の乗用に供するというもの。この制度であれば月5万円程度で自分の馬を持った気になれる。ただし、半自馬の持ち主に毎日馬を占用されてはたまらんということで、持ち主が無料で乗れる騎乗回数に制限を置くクラブもあり、そうおいしい話(お手軽に好きなだけ乗れる)ばかりではない。
自分の馬を持ったときの大きな問題は、故障や老化で乗れなくなったときにも面倒を見続けられるか?という問題。 乗って楽しんでいる間は十数万円/月の費用を喜んで支払う人でも、乗れもしないのに馬が死ぬまでこの金を払い続けることができるだろうか? 馬の寿命は人よりずっと短いから、持ち主が老いて乗れなくなる前に、馬が乗用に耐えなくなる時が必ず来る。その後は、乗れないけれども医療費・預託料などはかかり続ける。
そうした費用を払わないということは、その馬を処分(屠殺)することを意味する。もっとも、これは自馬でなくてもクラブ所有の馬でも同じ事。しかし、クラブ所有の馬については、この問題を他人事として見ないふりをできるが、自分の馬ではそうはいかない。この問題に真摯に悩んで乗馬から遠ざかる人もいる。
自馬を持つなら、老化(あるいは故障)した自馬を苦痛と思わずに面倒見続ける覚悟が必要。この覚悟がないなら持つべきではないと思う。こちらの記事は競走馬の観点から書かれているが、よくまとまっている。
ところで、馬自体を購入する費用は驚くほど安い。オリンピック級の馬は何億円もするが、乗馬クラブで適当に乗るための馬なら廉い。乗馬用に飼育された新馬なら10万円も出せば買える。日本の乗馬クラブの多くは競馬上りの馬(レースを引退した馬)を格安あるいはタダで引き取って使っている。たいていの乗馬クラブには「この馬はxxxでレースに出ていたんだよ」とか「中央競馬で障害を跳んでいたよ」とかいう馬がいる。ただし、こうした乗用馬として未調教の馬を買うのは安価(運搬費の方が高い?)だが、乗馬クラブで調教してある馬を、気に入ったからと言って自分の馬にしたい(自馬や半自馬に)というと、高額な値段(数百万円)を言われる。馬場馬術調教の手間暇を値段に上乗せすれば、売る側としては百万円でも安いということか。それに、買い手がなければタダ同然だが、買いたがる人がいれば高値になるのは経済原則。しかし、国体に出るような馬でなければ、そのあたりで初心者が乗っているような馬の相場はそんなに高い訳がない。
・spook (物見?)
競馬で「馬が物見をする」という「物見」と、英語でいうspook(怖がる)というのは、かなりニュアンスが違うように思うが、馬術で「物見する」というのは spook
に近いような気もする。で、spook について言うと、とにかく馬は臆病な生き物だから、ちょっとした見慣れぬものに恐怖心を抱いて、すくんで仕舞って一歩も前に行こうとしなくなったり、落ち着きを無くして浮き足だったりする。
こうなった時の対応策は、怖がっている対象が特定できるなら、その事物から馬を背けて乗り手に意識を集中しなければいけないと思わせるような手綱操作(たとえば首をねじ曲げる)をして、対象物から意識を逸らせるというのが一法。
しかし、一歩も前に進まないというようなことは、怖いものがある場合でなくても、いやなことを予感してということもある。例えば、以前鞭をいれて汗がしたたり落ちるほど駈歩をさせたような場所へ行くと、「また走らされるのか。それは嫌だよ」とばかり動かなくなったりする。もっとも、馬にとってみれば、それを「怖い」ことだと感じるのかも。
で、いずれにせよ、馬が本当に怖がっているときは、馬の身体のあちこちがブルブルと震え出す(*2)から、そうなったら乗ったまま何とかしようなどと考えずにすぐに馬から下りろという。真に恐怖に駆られた馬というものは何をするかわかったものでないし、恐怖に駆られて暴れ出したら馬上からなんとかするなど到底不可能だという。命あってのものだね、すぐ降りるべし。
(*2)これは本当に文字通りブルブルと激しく震えて、乗り手の内股・脹ら脛へはっきり判る震動として伝わってくる。
・馬の死
H先生のところの馬が一頭死んでしまった。21才ちょっと過ぎだったようだ。駈歩の反撞がとても気持ちの良い馬で気に入っていたが、「今日はあの馬でお願いします」と頼んだら、「あれ死んでしまったのですよ」というお話。「えー、どうしたんですか?」と聞くと、ようやく春になってとても暖かい日が数日続いて冬毛(この馬はとても長い黒い冬毛で熊のようだった)がどっと抜け落ちた後、また寒くなって(先生のところは標高6-700mの山奥にあるので、その頃にもバケツの水が氷ったりした)体調を崩して、いろいろ手当をしたのだけれども2週間ほどで死んでしまったという。儚いものです。
人を乗せることができる健康状態だったものが、数日あるいは数週間で死んでしまうということは、よくある話。しかし、一方で、「この馬はどうしたのですか?」と聞くと、「これはもう足腰が弱っていて乗れないんですよ」という馬もよく見かける。よく見ると脚がぶるぶると震え気味だったりして、これじゃあ人の重さは支えられないなあという状況、それでも生き続けている。
事故死というのも結構ある。以前よく通っていた外乗施設でも「今日はあの馬でお願いします」と頼んだら「あれ死にました」という。「どうしたのですか?」と聞くと、頸をどこかにぶつけて死んだ(事故死)だということだった。頑丈でたくましく見える馬だが、怪我の部位によっては実にあっさりと死んでしまうことがあるようだ。
・アラビアンに乗りたい
カッコいい馬というなら、アラビアン。
アラビアンは姿と言い歩様の美しさといい、絶品。特に速歩や駈歩は独特の歩様で、重心の上下動がほとんどないのではないかというような走り方をする。裸馬に乗って駆けさせれば最高の乗り心地を味わえそう。ところが、このなんとか乗ってみたい美しいアラビアンというのは日本の乗馬クラブにはいないのではないか? 値段も高そう。アラブ種というように範囲を広げても、アラブ種による競馬が日本では行われなくなり生産量は激減、競馬上りの馬に頼っている乗馬クラブにはアラブの血の濃い馬がほとんどいなくなった。乗馬用として繁殖された馬にはアラブの血が混じっているものがいるようだから、そのあたりで満足するしかない。しかし、純血のアラビアンには一度は乗ってみたいもの。だが、現地(中近東)に行けば手軽に乗れるのだろうが、馬に乗りに行って過激派に誘拐されてもなぁ。
・人懐っこい馬
乗りやすい馬というと、人に対して好奇心を持ち、悪意を持っていないということが大切。そのためには、馬が虐待・苛められていないことが必須条件。愛情をもって大事に扱われている馬は、人に対して素直。
虐待やいじめを受けた馬は人に敵意をもったりするので、馬装しようとしたときに暴れたり噛みついたする。当然乗っても扶助に素直に従わないことも多い。甚だしい場合は、乗り手を跳ね落とそうとしたりする。反抗する馬を乗りこなすという楽しみ方もあるだろうが、普通は、人に対して敵意や反抗心を持っていない馬に乗ることが、乗馬を楽しく快適なものにする。江戸時代の馬術の達人が乗馬の秘訣を聞かれて「暴れ馬には乗らないことだ」と答えたという話は有名。
先生のところの馬は、無口をつけようとすると自分から鼻面を無口に突っ込んでくるし、ハミもごく素直に銜えてくれる。楽ちんなもの。
・セン馬
明治維新のころ日本に軍事指導にきた外国の武官は日本の軍馬を見て、「これは(馬ではなくて)猛獣だ」といったという。日本には馬を去勢する習慣がなかった(知らなかった?)ので、牡馬は気性が荒くてすごかった。発情期など危なくて、とても乗っていられなかったのではないか。
遊牧社会では繁殖用以外の牡は去勢するのが普通で、去勢してある馬はセン馬(略してセン、英語では gelding )と呼ばれる。乗馬クラブで乗る馬はだいたいがセン。
以前いきつけだった外乗コースのある乗馬施設で、「今ちょうど玉抜きが終わった馬がいるけど見る?」と言われて手術直後の馬を見せてもらったことがある。バケツの中に握りこぶし大よりちょっと小ぶりな白い丸い塊が二つ転がしてあった。「ああーあ、ほんとにタマを抜かれちゃったんだー」と見ていたらカラスが飛んできてあっという間に銜えて持って行ってしまった。もう戻せない。馬の方は手術あとから多少出血があったが何事もなかったかのように馬繋場につながれている。人間だったら「なんてーひでーことをしやぁがるんだ」と大いに怒り狂うところだろうが、何をされたか判らないというのは怖いもの、平然としている。
世話係りの人が「同じオスとして複雑な感情ですけどね」と言っていたが、たしかに妙な感じ。安全に乗れるようにするには去勢はほとんど必須だが、オスとしては役立たずにしてしまうのだからなぁ。でもまあ、人間に置き換えて考えるから「とんでもなくひどいこと」なのだが、平然としている馬を見るとそんなにひどいことだと考える必要はないのかも。センなら、素人でも楽しく乗ることができるので、人を乗せられない馬として屠畜場送りにされてしまうこともないのだから、、、、、
・馬を欲しがるろくでなし
「〇○をやっている人に悪い人はいない」というが、これは当然ながら大体は嘘。乗馬をやっている人にもろくでなしは居る。
乗馬クラブ会員がオーナーに、例えば「自分の馬が欲しいから40万円で探してくれ」という。オーナーがあれこれ探し出して、馬を取り寄せて「これが良いでしょう。希望通りの40万円」というと、「自分の希望していた馬と毛色が違う、思っていた調教レベルでない、なんだかんだ」とクレームをつけて、「これじゃあ30万円しか出せない」とゴネたり、あるいは、ためし乗りと称して散々乗って「もういらない」と言い出したりする人がいるらしい。
取り寄せた馬を送り返すには、それなりの金がいるから、その分は安く値切っても売ってくれるだろうと見越して、最初から払う気の無い金額を言うらしい。
しかし、さすがにこういう性質の悪い人の情報はオーナー間で広まっているから、最初はともかくこういう人が馬を買いたいと性懲りもなく言いだしても誰も相手にしなくなる。それにしても、どこにでもろくでなしはいるものだ。
・やくざが~
乗馬クラブの個人オーナーには変人が多いとかいう話があるが、馬に熱心なあまり変わって見えるというくらいなら問題ない。しかし、金銭面にルーズだったり、会員に金を無心するオーナーもいるようだから、こうなると問題。また、乗馬クラブの中にはやくざが経営しているクラブもある。金と権力は得たから次は世間に誇れるステータスだということで乗馬クラブのオーナーになったり、娘にせがまれて馬(競技会で好成績を残せるような高級馬)を買い与えて、さらにはその馬を飼育するために乗馬クラブを持つ、といったパターンがあるらしい。乗馬クラブオーナーの間では有名な話。
自分が会員になった乗馬クラブが実はやくざの経営だったなどはゾッとする話だから、そんなことが無いように噂などには注意していた方がよい。
・客にも節度が
乗りに来る客の側に問題がある場合も。たとえば、お金があまっているのか、クラブにナイター設備を寄付しようとか言ってくる会員さんもいる。これが、寄付してくれるだけなら良いが、次第に、クラブ運営にも口をだすようになったり、俺がやってやったんだとばかりこれ見よがしな振舞いをするようなことになると、オーナーとしては不快な気持ちにもなる。オーナーは自分の考えがあってクラブを運営しているのだから、そういったことに深入りはせず、馬に乗らせてもらう・触らせてもらう、ありがとうございました、さようならまた今度よろしく、という関係を保つ方が無難。
会員同士で、こう乗った方がいいですよ、とか「これが上手くできないんですけど?」「それはこうやったらうまくいったことがありますよ」などという交流は結構なことだが、度を超すと嫌がられる。特にゴルフの教え魔ではないが、頼まれもしないのにああだこうだと助言すべきではない。下手をすると人間関係が壊れて、乗馬が楽しいものでなくなってしまう。クラブによっては、この問題を避けるために会員が会員にアドバイスすることを禁じていたりすりる。ただし、身体に危険がおよぶような危ないことをやっていれば、「それは、こうなって怪我をすることがありますから危ないですよ」と注意してあげるべき。知らん顔をしていて事故が起これば後味が悪い。
・馬におやつ やり方が大問題?
馬にリンゴやニンジンなどのおやつを持っていくことはだいたいが歓迎されるが、馬をきちんと管理しているところでは、どうぞどうぞということでもないらしい。以下は某馬事公苑で馬にニンジンやリンゴなどをあげることについての注意書き。たかがおやつをあげることだけど、問題を引き起こすこともあるんだなぁ。
ー 馬が前掻きをすると蹄鉄が減ったり、蹄鉄がひっかかって外れたときには蹄にひびが入ったりする。そうなると何ヶ月も経過しなければ元通りにならない。
ー 馬がニンジンをもらえそうだと思っているときは、紙袋などのすれる音だけで前掻きを始め、馬房の中でまわりの馬も一緒に興奮して蹴り合いを始める。こういったことで馬が怪我をすることがある。
ー 手から小さく切ったニンジンを与えることも、手にじゃれることを憶えさせ、いずれ人に噛みつく事を憶えさせることになる。
ー ニンジンやリンゴは馬の食欲をそそり、それ自体は良い餌なのだが、与え方に問題がある。
・ライセンスビジネス
乗馬ライフなどはときどきライセンスを取ろうなどと特集記事を組んだりしている。ライセンスというのは、自分のレベルを客観的に評価するという意味があるが、尺度としてどのくらい信憑性があるのか疑問。というのは、コースをよく覚えている賢い馬なら簡単にコースはクリアできるし、御しにくい馬だとまともに合格するのは難しく、馬次第で合否がなんとでもなるという面があるから。難しい馬で合格点をとれれば相応の技量があることは確かだが、単に「ライセンス〇級に合格しているから絶対的にこのレベルにある」といえないところが悩ましい。
他方では、乗馬ライセンスというのは、ライセンスビジネス(受験料で稼ぐ、ライセンス向けの講習会で稼ぐ)のために存在するように思える。乗馬に限らず、「これこれはxx級の認定をもっていないと教えません(できません)、認定を取るにはこれこれの講習を受けて、受験して合格しなければいけません」というシステムを創り上げて、受講料、受験料などで稼ぐビジネスモデル。この仕組みが上手く回れば、受講用のテキスト・教材を作る人、講師、ライセンスを管理する人、などなど一定の人々に金の流れができあがる。世の中はこのビジネスモデルであふれている。
でも、「なんでも金儲けのネタにして」と捻くれて考えずとも、客観評価ができる基準・上達目標を設けてくれているのだからありがたい話ではある。「乗馬ライセンスxx級をとれたうれしいな、次はxx級に挑戦しよう」というのも乗馬の楽しみ方の一つで、これを無意味だなどと否定することはできない。なにごとにも、目標があるということは良いこと。
・乗馬世代昨今
I先生のクラブは海水浴場の近くにある。バブル崩壊前は、海水浴客や遊びに来た人がたまたまクラブの看板を見て、乗せてください・乗ってみたいのですがと大勢来たそうだ。今はそういう客は激減している。下田の寿司屋のオヤジも「最近は観光客が減ったよ」と毎年のように嘆いている。民宿もバタバタつぶれている。
今は、昔の若い観光客に代わって、私のようなリタイヤした世代や年配の世代が乗りたいといってくるようになったそうだ。若い女性の乗馬人口が増えているかと思っていたら、そうでもないらしい。ネットの発達で、インターネットで見たのだけれどとか、大手乗馬クラブの会員だけれどここで乗れますか、という人も増えているそうだ。
*I先生のクラブは残念ながら今は存在しない。日本ではなくオーストラリアで馬の仕事をしたいと言っていたので、海外移住されたのか、あるいは、単に廃業したのか?
・鞍の押し売り?
クレインは会員に鞍を押し売りすることで有名だが、執拗に言われて買わされてしまったという人、断ったらそれ以上は言われなかった人、「買えなんていわれたことないですよ」という人など様々。比較的廉価に乗馬を提供するために、騎乗料以外のところで金を取ろうというのは企業としてはごくまっとうな発想。鞍を買えといわれるから悪質なクラブだとは言えない。買う義務はないのだから、いらない・買わないと強く拒否すれば良い話。
専用馬制度という、特定の馬(会員に人気が高い馬)に乗りたいなら追加料金を払えという仕組みもあるらしい。これも大勢の会員の全部の要求レベルに見合う馬の数を揃えられないという実情を解決するために適用している経済原則だと思えば納得。ただ、これも専用馬を頼まないと会員に荒い乗り方をされて人間不信に陥った馬にしか乗せてもらえないとなると、そのクラブには結局良い馬がいないのと同じことになるから、好もしい話ではない。
・メリーゴーラウンド
メリーゴーラウンドという言葉がある。多数の馬が狭い馬場で数珠つなぎになって、どこが先頭か判らないような環になった状態で練習(歩く、走る)することを揶揄した言葉。こういう状態になると、馬は乗り手の指示よりも前の馬に倣って動くという具合になる。それで「それじゃあ上達はおぼつかない、そんな練習はいくらやっても無駄だ」と言われることになる。
けれども、これも最初は悪くないという話がある。馬が勝手に歩いたり走ったりしてくるから、乗り手は馬を推進するために一生懸命に脚を使うとか、手綱を必死で操るというようなことはせずに済む。脚も手綱も忘れて、ひたすら馬上での身体の安定を練習する、あるいは、馬独特の反撞に体を慣らす、ということを目的にすれば、ある意味とても効率的練習方法。
よい馬になればなるほど馬上の人の体重移動とか体勢の変化に敏感に反応。だから、どんどん上達して上級馬を乗りこなしてゆくためにも、早い段階で馬上姿勢を正しく安定に保てるようになっておくことが、とても大切。メリーゴーラウンドも捨てたものではない。調馬索のない調馬索練習のようなものだから。
ただ、このメリーゴーラウンドばかりだといくら経験を積んで姿勢は安定しても、馬を一人で動かすことができないかもしれない。馬は乗った人の扶助ではなく、インストラクタの掛け声と前の馬の動きに合わせて走ったりとまったりしている。乗り手の扶助が有効なのかどうかを確認できないから、実はまるで扶助ができていない可能性もある。そんな状態でほかのクラブや外乗で一人で乗ってみると、まるで動いてくれないという情けないことになる。
・駆けさせてくれ~
駈歩は独特の揺れも大きいので乗り手が体勢を崩しやすいと言える。このため、H先生は基礎(馬上での上体の安定や基本的扶助操作)を練習しているときは駈歩はやらない方が良いと言う。速歩や常足での隅角通過や輪乗りができていたのが、駈歩後に馬がよれたりすると、「駈歩なんか入れるから、体がちゃんとした動きを忘れて体勢がくずれた」など注意される。先生からすると、「せっかく出来てたのに、駈足なんて余計なことをするから、また元に戻っちゃったじゃないか」ということで残念に思ったのだろう。
クラブによっては、駈歩をさせてもらえるためには特別の講習をパスしないといけないなど金銭的、時間的ハードルを設けているところもある。でも、駈歩は乗馬の華だからなぁ。いかにヘッポコでもたまには颯爽と駆けてストレス発散といきたいもの。
あるレベルまで駈歩はさせない、初心のうちからどんどん駈歩をさせる、どちらも言い分はあるように思える。けれども、同じことばかりやっていると(下手なくせに?あるいは、へただからゆえに)飽きてしまうから、適当に駈歩もやらせてくれた方が生徒としてはありがたい。
・下乗り
馬にも準備運動は必要。体を温めほぐしておく、あるいは、体力が有り余りすぎているとき適度に体力を消費させて初心者が乗っても飛び跳ねないようにしておく、怠けずに扶助に従わなければいけないという気にさせておく、などのために事前にトレーナーや先生が乗って運動させておくことを「下乗り」と言う。
長雨でしばらく運動させていなかった馬に乗るとか、雪で馬場を使えずにいた後で乗るとかいうときは特に下乗り、ないし、調馬索運動などを充分した後で乗る方が無難。雪の馬場などでは馬は興奮して跳ねまわる。こんなに跳ねられたら振り落とされるだろうなぁというほど。しばらく運動すると落ち着いてきて、これなら乗っても大丈夫と不安感がなくなる。
ところで、ある乗馬クラブ会員の話を聞いたら、下乗り時間も騎乗時間に含まれるルールになっているということ。一鞍45分なのに下乗りと称してインストラクターが長々と乗るので、自分が乗れる時間はその半分もないというひどい話もあるようだ。こんなことだと騎乗料(時間当たり)は額面の倍ということになるから詐欺みたいなもの。あまりにひどいようなら、ほかのクラブに替わった方がよいと思うが、ブログなどを読んでいると下乗りしてくれたおかげで乗り易くなったとか意外と好意的感想が多いのに驚く。騎乗予定時間には乗れる状態の馬を用意しておくのがクラブの責任だから、会員が乗り易くするためだという名目でも、騎乗時間をこれで削るというのはクラブの怠慢だと思うが。
・万里を遠しとせず
乗馬クラブ選びのガイドなどを見ていると「まず通えることが大事です」と負担にならずに通える距離・時間のところにあるクラブを選ぶことが一番大切であるとガイドしている。
たしかに、通えないほど遠ければ乗馬を継続することは難しいが、これにこだわる必要はないと思う。毎日行くなら別だが、普通は週一回、週末に行く程度だから、遠くても困ることはない。通うことの負担よりも、教え方が良い・良い馬がいる・乗っていて楽しい、といったプラス面が多ければ千里も遠しとせず。
しかも遠い(辺鄙なところにある)クラブには、次のようなメリットがある。
(1)会員が少ないので土日でも込み合うことがなく、希望する好きな時間帯に乗れる、
(2)人が少ないので1日に2,3鞍集中して乗ることもできる、
(3)一人のインストラクター(先生)が同時に見る人の数がせいぜい数名、たいていは一人、で個人教授に近いレッスンが受けられる、
生徒が少ないのでインストラクターは個々の生徒の技量・癖などをよく把握している、
大勢で同じ練習メニューをこなす形式でない(個別指導)ので、個々の生徒のレベルに合った練習をさせてくれる、
(4)有給休暇を取って、平日にでも行けばクラブを貸切り状態にできたりする、
など。
遠いからといってクラブ選びの対象から外してしまうのはもったいない。遠くて月に1回しか通えなくても、土日泊りがけで集中して乗れば、月に5,6鞍は楽に乗れる。
馬に乗っているとドスンドスンと上下に脊柱が餅つき状態になって、椎間板に良い訳が無い。日常生活ではこんなにドスンドスンされることはない。乗馬は腰(椎間板ヘルニア?)に悪いんじゃないかと思えるが、どうなんだろう?
長年のデスクワークが祟ったのか、脚にしびれが出るようになり、どうも腰(椎間板)が原因ではないかいなと勝手に思ってた。ちょっと悪化した折に、ナショナルジョーバで腰をマッサージしようと二鞍続けて(30分)乗って、腰をぐにゃぐにゃとやったら、翌日からひどいことになってしばらくは歩くのにさえ難渋した。何でジョーバで腰をグニャグニャやって直そうと思ったのか今考えるとアホな話だが、これは腰には良くなかったことは確か。実際の乗馬でも、腰をぐにゃぐにゃとやれば、やはり腰にはとんでもなく悪いということは間違いない。
先生は、「しっかり馬上で背伸びして、ドスドスという反撞を背骨を取り囲む筋肉でしっかり受け止めなければいけない、絶対にぐにゃぐにゃとやってはいけない、ぐにゃぐにゃやると腰をいためる」と言う。しっかり真っ直ぐ立つと確かに、背骨へのダメージは少ないようだと実感できる。
ところで、腰痛が多少残っているときに、ゴルフを二日連続でやったら、二日目の昼飯時に足が動かなくなって手すりに掴まらないと歩けなくなった。なんとか、誤魔化して午後を乗り切ったが、これで乗馬よりもゴルフが何倍も腰には悪いと確信した。腰痛でゴルフに付き合えなくなったという人に「どうしたの?原因は何?」と聞くと、「ゴルフのやりすぎ」と言う人は私の周りにも多い。ゴルフは腰へのダメージが乗馬よりも大きいと思う。
全国展開している大手乗馬クラブ「乗馬クラブクレイン」、会員数日本一とうたっている乗馬クラブだ。ネット上では「鞍を押し売りする」とか「専用馬をとらないと劣悪な馬をあてがわれる」とか悪評が高い。しかし、クレイン未体験だが、それほど悪く言うこともないだろうと思っていた。騎乗料などが安い分、他に収入を増やす道を考えなければいけない訳で、鞍を買う余裕のある人から集めた金で騎乗料収入を補うことも企業努力としては当然。それにクレインが乗馬を普及させた功績は大きい。
そんなクレインのことを改めてここで話題にするのは、最近読んだ女性のブログが原因。この女性は大変明るい前向きな人(残念なことに2014年、癌で他界なさいました。ご冥福をお祈りいたします)のようで、ブログからは楽しい乗馬ライフを過ごしたことが窺われ、決してクレインに不平不満を漏らしてはいない。そんな楽しい乗馬ライフを過ごされた赤の他人のブログを読んで何を感じたか、、、
まずはこの女性の乗馬鞍数。1500鞍(途中ブランクがあったようだが、10年以上)を超えている。1500鞍を超えている人のブログは他にもあるから、この鞍数だけではそれほど驚くことはないのだが、1500鞍を超えているのにレッスン内容が初級駈歩とか駈歩練習会などというもの。1500鞍を超えているのに「初級××」はないでしょー。でもブログでは、(楽しく)るんるんで駈歩できた、とか、まるでうごいてくれなかったとか綴っているだけで不平不満は一切もらしていない。
次に、多くの馬が口かごを付けている事に驚かされた。人を咬むという悪い癖を持った馬がこんなにたくさん!!?? ブログ主も咬まれた傷の写真をアップしている。馬は虐待されたり過度なストレスを与えられたりしないかぎり意図的に人を咬んだりしないはずだから、そういう経験を多くの馬がしているという環境に驚いた。
で、考えたこと、1500鞍も乗っている人に、もう少しましな馬をあてがえなかったものだろうか?ということ。もっと素直に動いて人を咬んだりしない馬をあてがえば、このブログ主の乗馬ライフはもっともっともっと楽しいものにできたのではないだろうか、ということ。ブログの中ではいっさい不満を出さず、せいぜい「この馬は(御せそうにないから)換えてくれくれ」というお願いをしたくらいのことしか書かれていないことが、その思いをいっそう強くさせる。すでにお亡くなりになっているだけに、ひとしお残念です。
ブログ主のプロファイルの
乗馬ライフ♪はマイペース。
クラブに足繁く通って 少しは上達したのだろうか(^^;)
颯爽と駈歩できるようになったかな(^^)
に涙が止まりません。
ところで、「クレインってひどいじゃないか」と言えるかもしれないが、馬をそういう酷い目に合わせたのは日ごろ馬に乗っているクレインの会員とも言える。「もっと蹴って」「もっと拍車を入れて」というインストラクタと、拍車傷がつくほど蹴ったり鞭でシバキ上げる(一部の)会員がいっしょになって馬をそのようにしてしまったのだ。乗馬を楽しむ人にもいろいろいるから、馬を奴隷のように扱って快感という人がいても不思議はない。あるいは意図的に馬を虐めなくても、あやふや、間違った扶助で馬を混乱させダメにしてしまう会員も多いだろう。初心者が馬をダメにする乗り方をしていても、大勢の生徒にインストラクタ一1人では目が届かない。
客は勝手だからあれをやらせろこれをやらせろ(跳ばせろ、駈けさせろ)と要求するが、こういう要求をする客のレベルと提供できる馬のレベルをうまく調整をつけて適宜サービスを提供するのは難しい。いつでもどんな客にも対応できるようにしたら設備(用意している馬、インストラクタ)が過剰にならざるを得ないので無理。結局、馬は知能・感情をもった生き物だから、バイクのようにアクセルをふかせば(蹴れば)必ず進んで、ハンドルを切れば(手綱をひっぱて首を曲げれば)必ず曲がるというものでなくて、馬に進もう、曲がろうという気になってもらわなければだめなのだ、乗馬は馬上から馬にそういう乗り手の意図を蹴ったり叩いたりせずに伝えるものなのだと客に解ってもらうことが必要で、そういう努力が足りないのではないだろうか?もっとも、そういうものなのだと客に伝えたとして、「そんな、まどろっこしいものなのか。乗馬なんてやーめた」という人と、「馬と意思疎通ができなければいけないのか、生き物相手は面白い」という人とどちらが多いか考えて、前者も逃がしたくないということで、そんな話はすっ飛ばして「ほら、もっと蹴って」という話になっているのだろうか。
けれども、申し訳ないが前者には退席ねがって、後者だけを集めた方が、結局良い馬を増やして乗馬をより易しく楽しいものにし、乗馬人口を増やすのに良い結果をもたらすのでは、と思うのだが。。。。。
以下に落ちたり蹴られたり 私の沢山の失敗の中からいくつかをご紹介。全部 単騎外乗でのトラブル。何かのご参考になれば、、、。
ところで、馬は暴走しても6-700mも走れば(現役の競走馬じゃないんだから)疲れてスピードダウンする。慌てずに馬の疲れを待とう。バンバンとお尻を跳ね上げられてバランスを崩して落ちそうなら、鞍の落馬防止用のバンドなどにつかまって、鐙に立って膝で反動を抜くことで跳ね上げられて落ちることを防ぐ。走り出してしまってからでは停まらない、暴走の気配があったらすぐに止めよう。とにかく手綱を全力で引っ張ってでも止める。引きっぱなしでなく、強く引いて、緩める、を繰り返す。
なお、馬の尻周り2m以内には近づかないのが安全。臆病な馬は得体の知れぬものが近づくと嫌がって蹴る。また夏場にアブなどを肢をあげて追い払っているときにも近づかない方が無難。
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