馬に乗るのが上手くなるためには、馬を動かす仕組みを知ること、馬に自分のやりたいこと(馬にこう動けという指示)を伝える能力を向上させることが、絶対条件として必要。
顔の向いている方へ進むのはとても自然、しごく当たり前に思える。馬だってそうだ、馬が右へ曲がるときには馬の顔は右を向かされている。
だから、「なるほど、馬を右に曲がらそうと思ったら、馬の顔を手綱で右に向けてやればいいんだ」と思ってしまうが、これがとんでもない間違い。いくら顔を右に向けられても、馬自身が「右へ曲がって進もう」と思わない限り右には絶対に曲がらない。
これは至極当然で、馬は自分の意志で動く生き物だから、乗り手の「こうしてくれ」という要求を理解して、なおかつ、その要求を受け入れて「そういう風に動きましょう」と思わない限り、乗り手の思うとおりには動かない。それに、「駈歩をしてくれよと言う乗り手の意図」が理解できたとしても、「んなこと言われても、もう走りたくないんだよ」とか「背中が痛くて走れないんだよ」ということで、走り出さないことだってある。
馬に乗るということは、自分の意図をいろいろな方法(脚での圧迫の仕方や体重のかけ方、手綱の操作、鞭や声など)で馬に伝えて、それを理解してもらって、「判った。そういうように動きましょう」と了解してもらうことだということを常に頭に置いておくと、上達の大いなる助けになる。
馬に自分の意図を理解・了解してもらうためには、自分の意図に対応した扶助を一貫性をもって馬に与えなければいけない。けれど、落ちないための人の本能的な動きは馬にとって好ましい動きではない。だから、手や脚を落ちないようにするために使うことを一切せずに馬上にバランスよく乗って、手や脚を、馬をコントロールするためだけに自在に使うことができなければ上達はおぼつかない。つまり、手足を自由に動かせる余裕をもって馬上でバランスを保つことができる」ことが馬術を習う基礎能力として絶対に必要。
この能力を養うためには、この絵のような「棒立ち乗り」(鐙の上に真っ直ぐ立ち上がって前後左右のバランスを取って乗る)の練習が、効率的。
だが、レッスンの合間ごく一時的に「ちょっと立ってみましょう」と言って棒立ちをやることはあるが、これを集中的にみっちりやってくれるクラブは少ない。
肉体的にもかなりきつい、しかも立っていられずすぐ鞍にへたり込むし、単純で面白くない、ということで棒立ちの練習は、はなはだ不評。こればかりやると生徒がみんな辞めるという話もあるくらいだ。
しかし、嬉しいことに、M先生のところでは、棒立ちの練習をみっちりやってくれる。先生の指導原理の背景には、
(1)非常に多くのアマチュアライダーが、『基本的な慣れ=三種の歩法で普通に乗り回す事ができる』を欠いている中で、ハイレベルな事をできるようになりたいとの望みを抱いており、実際には非常に単純な事、即ち『慣れの欠如』という問題を、『馬術理論について考え、その実践を意識する事』 や『レッスンで馬術的な指摘を受ける事』で補おうとしている、
(2)早い段階から正しい指導を受ける事はとても良く、また大切なことだが、(1)は「頭でっかち」になりがちで、 意識や努力の割には非常に成果が少なく、大変不毛。
(3)そういう初級の生徒に上達してもらう道は、詰まる処「早く慣れさせる」という事につきる。だから、最善・最良のレッスンというものは、あらゆる手段を講じて「安全に、沢山速歩・駈歩をさせてあげて、早く『馬』や、『馬を乗りまわすという事』に
慣れさせてあげる」、「一通り、普通の馬でなら、駈歩まで普通に乗り回す事ができる」ようになって頂くという以外にはない、
という認識がある。だから、初めのうちからどんどん駈歩を体験させてくれるし、棒立ちもみっちり(しばしば、「もう止めてくれ、ギブアップ」と言いたいくらい)練習させてくれる(2016年現在)。
早く上手くなりたい人はぜひ棒立ちの練習をすると良い。常歩、速歩、さらには駈歩でも棒立ちで乗れるようになると、かなり姿勢が安定するし、なにせ棒立ちという不安定な体勢で走る馬の上に乗っていられるということで自信も付いて、何があっても大丈夫的な感じさえ持つ。低いクロスバー障害を棒立ちで跳び越すと、「えっ、跳んだの」と感じるくらい滑らかに乗れるのが判る。
随伴について
馬術書を見ると、だいたいは「随伴(あるいは、随伴させること)が大事」と書いてある。馬の動きに随伴しろという。これを読むと、なにか積極的に「随伴」という行為をしなければいけない、馬の動きに合わせて自ら身体を動かさなければいけないような感覚にとらわれるが、乗っている人が積極的に身体を動かすのは、多くの場合馬にとってありがたいことではないという。それに「随伴」に対応する英語は「following」だから、積極的に何かするのではなく、「ついて行く」ということでしかない。
だから、姿勢を安定に保っておくことができていないようなレベルで、「随伴しなくては」とあれこれ身体を動かすのは、馬にとって邪魔なばかりでなく、乗り手が悪い癖を身につけてしまうことになるという。
速歩の反撞で尻がドシンドシンと跳ねるので、「これは随伴ができていないからだ」と、腰をふにゃふにゃ動かして、あるいは前後に腰を漕いで、なんとか尻が跳ねないようにしようと努力することなどは、しない方が良いという。こんなレベルでは、跳ねることは気にせず、むしろ、跳ねても良いから、まっすぐ重心を座骨、鞍壺の上にいつも同じように落とすことに最大の注意を傾けるべきだという。
どんな本にも大事だと書いてある「随伴」というものは、騎座がどっしりと安定しない初心レベルでは、考えなくても良いものらしい。というか、何かしようとは考えない方が良いらしい。
ある日、M先生に「どうですかあの馬は」と、レッスンで乗った馬のことを尋ねられた。「なんか、他の馬よりも乗り心地がいいですねぇ。素晴らしい乗り心地で良かったです」というようなことを言ったら、「私たちはそんなことは思いませんね」と言われた。どうも「あの馬の乗り心地はいまいちだけど、この馬は良い」というようなことは、馬なり(その馬の好む走り方)に乗っているだけで、積極的に後肢を踏み込ませるとか、馬体の収縮を求めるとか、きちんとハミ受けさせるとかをしていないから、馬次第で乗り心地が違うということらしい。
馬術的技量が上がると、馬の脚の動きや躍動を思うままにコントロールできるようになって、個々の馬の生来の走り方での乗り心地というのは無意味になるらしい。で、こうい技量を身に付けるための練習をするには、馬術的調教がなされている馬で練習することが必要。馬術的調教がなされていない馬で、こういう練習をしようとしても、自分が悪いのか、馬に問題があるのかが判らず、悩んで無駄な時間を費やすことになる。
だから、馬術的レベルで上達するには、きちんと馬術的調教をされた馬で練習することが必須。もっと言えば、そういう調教を施した馬がいる乗馬クラブでないと上級レベルに到達することは難しいらしい。